区切り と 終わり

しんどい半年だった。

まあ正直、アメリカに来てからというものの、30数年分のツケを払う、みたいなことが続いているのでそれなりのしんどさは常にあるのだが、2018年度後半(アメリカ暮らしで年度を使うのも変だが)は相当辛かった。

仕事上、どうしても超えなくてはいけない壁があった。

やり慣れている作業ならば、スタートしてからゴールまでの工程を知っているので、ところどころ自分で区切りを設定して、息抜きしつつ先に進むことができる。

だが、今回のはこれまでに経験がない作業だったので、区切りと終わりとを上手く分けてとらえることが出来ず、ついつい毎日終わりを目指してしまい、当然終わるわけがないので、酷い自己否定感を抱えるはめになった。精神的に追い詰められた。

自分のために日々着る服を選ぶことすら、億劫というより、そんなことをする資格はないだろう、と思ってしまうような心理状態にも久しぶりになった。(ブロッコリー事件参照)

楽しいこと、好きなことを自分から遠ざけ始めるのは、よろしくない状態のひとつのいい目安になる。

でも正直、期間によって強弱はあれど、もう20年くらい常にそういう傾向を引きずっている気もする。

「これさえ終われば」とずっと思っている。何が終わりなのかもよく分かっていないのに。

3月のとある10日間に4回連続で学部やら合同セミナーやらのプレゼンをぶち込まれて、仕事やら発表やらに関して他の人たちから反応をもらったりして、それで少し救われて、荒療治だったがやっと元の状態に戻ってきた。春先の陽気に合いそうな新しいシャツが欲しい、と思うくらいには。

「終わり」は本来「区切り」をひとつひとつこなしたり、通り抜けたりしながら、ちょっとずつ息抜きしながら目指すべきものなんだろう。

その一方で、実のところコレに終わりはないんじゃないか、という気もしている。コレとは多分、仕事を通じてだったり、生活を通して向き合っている何らかの「流れ」だ。

一見、終わりとして見えているのは、おそらくその他に比べると「大きい区切り」で、本当は存在しない「終わり」を目指しながら、皆、途中で死ぬ。存在には終わりがあるが、流れには人間が掴み切れるような終わりがない。

そう考えれば、謙虚にもなれるし、人の存在を愛するのに必要な思考回路の整え方の一つもようやく分かるような気もする。

…なんてことを文字にしながら、2017年の記事を見直していたらこんなことを思っていたようだ。相変わらず。居場所があることを感じる事が出来ないから、流れに救いを求めるのかもしれないな、なんてことを思う。

溶けて還る、みたいなやつに救いを見出しているんだろう、おそらくは。どうにも、宗教的な匂いもするし、布団の中で「人は死ぬのか」ということを初めて理解した子供の時から大して変われていないような気もする。