素敵の正体が知りたい

なにかに心動かされた時、「素敵」という言葉をよく使う。そう表現するのが一番、と思って使っている一方で、きちんと言語化する過程を省いた手抜きのようで若干の罪悪感も感じる。

アートを発信する側になったことはない。絵は描かないし、カメラをかまえて写真も撮らない。きちんと勉強をしたこともない。要するに、所詮その道をよくわかっていない人間が、出会ったものに惹かれた時に吐く言葉が、私の言う「素敵」。

絵や写真を含む全ての作品に対して、「うまい」「すごい」と思うことと、「素敵」「好きだ」と思うことは違う。

所詮その道をよくわかっていない人間が、「素敵」「好きだ」なんて思えるものは実は限られていて、つまりは、どこかで見たことがあるような気がするもの、というのが一つの条件なのではないかな、なんて思っている。

逆に、「こういう雰囲気の作品に対して、自分の反応は鈍い傾向にあるな」という自覚もある。それはもしかしたら、そんな風に外の世界を見たことがないのかもしれない。

もしかしたら、私は外の景色を見ているようで、生まれてこのかた、ありのままをしっかりと頭の中に写し取れたことがないのではないか、という気もする。

過ごした街の景色も、友人の顔も、恋愛対象だった人の姿も、きちんとした像としてではなく、どこか輪郭がぼやけていたり、特徴が強調・抽出された何かの形に変換して記憶しているのかもしれない。

自分が見ている「外」とは何だったのか。内に取り込まれた「外」はどんなふうに存在しているのか。

それは、誰かの見ている「外」と同じなのだろうか。

そんなことをおそらく無意識のうちに探っている。

「私の見ている世界」について、話がしたい。できれば触れてみてほしい。

だからたぶん、「これは一見自分の話をしているようで、他人を含む「外」や「世界」の話にもつながっているな」と感じられるものを私は素敵だと感じるし、その作品が語る世界の中に自分が含まれるのだと気づくことができた時、その作品のことを好きと思うのだろう。

同じものを見ることができた気がする、嬉しいな。それが素敵の正体の一部かもしれない。