善き世界

20歳くらいまでコーヒーが飲めなかった。支離滅裂な恋愛が終わった頃に好んで聴いていた曲があって、それに倣ってカプチーノをたまに飲むようになった。カフェに寄るのが日常的になった今でも、わたしはコーヒーを雰囲気で飲んでいるんじゃないかと思う。

そこからどうしてこの話に、と思われるかもしれないが、森友/加計の報道を見ていて思うことがあったので、この記事を書いている。

いずれの件でも、「お友達・お気に入りの優遇があったのか?」という観点から(も)問題視されていて、本来はそういうことが出来ない・出来にくいような仕組みになっているのにも関わらず、関係者たちはリスクを冒してそれをやっている。

「当人たちが絶対問題にならないと信じていた」というお粗末な可能性はさておき、単純な利権・保身が目的でそこまでするものだろうか?

むしろ、何らかの信念に基づいてルール違反をしたと考えると、すとんと理解できる気がする。

彼ら、人であれ思想であれ、何かを信じ切っていて、思い描く「善き世界」があるから、おそらくルールを破る・シラを切り続けることを正当化できる理屈を自らに叩き込んで行動しているのだ。

身内贔屓だのという方面から批判するのは分かりやすいのだが、実は彼らは、「こうすればもっと良くなる」という革命者に近い気概に基づいて動いていたのだと考えてみると、腹立たしいというよりも、これらの問題の怖さに気がつく。

今回は、彼らの目指す「善き世界」が多くの人と共有されなかったから、あるいは致命的な欠陥があったから批判された。

でもご存知のように、わたしを含めて民衆の気分は移ろいやすい。

もしその「革命」が、その他大多数の気分・その時の空気とマッチしていれば、不透明なプロセスすらも美談に転化されうるだろう。

「特例での抜擢」
「採用・認可プロセスをすっ飛ばす」

この二つ、本質的にどう違うんだろう。

つまりはこんな風に危なっかしいからこそ、本来の政治は特定の誰かの意図が強く迅速に反映されにくい煩わしい仕組みになっているらしい。

誰かの信じる善き世界は、誰に取っても善き世界だとは限らない。

人間の頭の中で描かれているものは、大体補正がかかって歪んでいる。「革命者」にとって、思想を共有できない人たちは居なくなっても構わない愚か者と映るだろう。

よく勘ぐられるようなずる賢さや悪意(総称した表現はあるかとしばし考えたが、「すけべさ」というのがしっくりくるかも)から引き起こされる問題のほうが、まだマシな気がする。

純粋な信念を持つ人や「善き世界」を語る人を前にした時、公平性があまりにも脆弱ではいけない。だから大きなことを決めるときは色々な人と徹底的に話し合い、決定プロセスを記録に残さなくてはいけない。

でも、もしかしたら、それだといつまで経っても良い世界にならないかもしれない。だからやはり、信頼できる人には強い決定権を与えられてしかるべき、というのは一理ある。

そして、そんな時こそ、権力者を縛るルールが必要なのであり、わたしたちは彼らの語る「善き世界」が何たるかを知る必要がある。

STAPの大騒ぎの際、色々な報道や悲劇的なニュースが報じられて消費し尽くされてしばらくした時、ふと「笹井先生はデータを見たとき、ただ純粋に研究者として嬉しかったんじゃないか」という可能性に思い及んで、非常にやるせなくなったことを思い出した。

そんなことをうだうだ考えていると、汗だくでKがジョギングから帰ってくる。昼食を食べてシャワーを浴びた後にソファーで爆睡しているのを横に、わたしはこれを書いている。

昼ごはんは白いご飯、茄子とネギの味噌汁、ピーマンのおかか和え、牛蒡と舞茸と牛ひき肉を炊いたもの。それから、ジャスミンティー。