アメリカと私

いつかこの記事を上げようと思っていたのだが、Charlottesvilleの報道を見て、今がそのタイミングである気がしたので、思い切って晒してみることにする。

私はこのブログで、何かとアメリカ様アメリカ様と言っているわけだが、

留学してよかった♡

とかいうようなやつをやりたいのではなく、生々しくて、ある意味では気持ち悪いやつを書き留めたいと思っている。

というか、どうしてもそういう記録になってしまう。なぜなら、日本で過ごした青春期・青春末期・その後にやらかしたあれこれの敗戦処理を私はアメリカでやるはめになっているからだ。

私の記憶には、当時消化し切れなかった出来事に付箋みたいなものが付いている。折を見てきちんと消化して剥がしていきたいのだが、これらはかさぶたみたいなものでもあるので、剥がすことを躊躇したりもする。

この記事では、そのうちの一つについて書く。

高校生の時、文化祭でKKKをもじった出し物を開祭式でやって、クレームを受けて、次の日から配布分のパンフレットに反省文を一部ずつはさんだ。

当時は、「不謹慎だった」と反省したし、結構落ち込んだ。当時の私は、白人至上主義団体が存在したのは大昔のことだと勘違いしていたのだ。

先生には怒られなかった。「僕も認識が甘かった」と言わせてしまった。

そういうことがあったので、未だに文化祭のことはあんまり思い出したくなくて、黒歴史と呼ぶにふさわしい黒歴史。(ちなみにパートナーにもこの話をしたことはない)

さて、当時「不謹慎だった」と反省した私に問いたい。何を反省したのか言葉にできますか?

というのも、今や30歳も超えた私は、不謹慎というのが便利な言葉で、「配慮が足りない」と言われるのをなんとなく察した時に使えて、さも「分かっている」ような感じを演出できることを知っている。多分、どうせ以下のパターンだったと見抜いている。

  1.  なんか変な雰囲気になった
  2.  配慮が足りなかったらしい
  3.  不謹慎だった、と言って反省する

そうね、じゃあ、何に対する配慮が足りなかったというのか。

差別を受けて未だに苦しんでいる人?

それは分かりやすい答えで、高校生が反省文に書くには及第点をもらえるかもしれないけど、30代になってアメリカに住む機会を得た私が、当時の自分に食らわせたい説教の方向性とはちょっと違う。

少しだけ愚痴にもなるが、その「KKK事件」から13年後の私は、「これからは女性の時代だから頑張れ」と言われる一方で「女だから得をしている」だの言われたり、その他諸々なんだかもう疲れてしまって、「とにかく早く何かを変えなければいけない」とか思いながら、研究所の片隅で留学準備をしていた。

アメリカに行けば、少しは息ぐるしさから解放されるだろう、なんて思っていた。

当時の私が思い描いていたアメリカを、以下に箇条書きにしてみる。

(1)「アメリカの良心」としては人種差別は許されない
(2)男女平等は徹底しており、管理職に女性がいるのは既に当たり前
(3)労働者の権利が守られており、雇用主と対等にやり合える
(4)政治や社会問題に対して国民の意識が高い

もう市民が戦う必要もないくらいに社会が整備されているのだろう、なんて思っていた。

で、実際にアメリカは仕事がしやすい。「空気読め」「こうであるべき」論に煩わされることは少ない。

でもそれは、「市民が戦う必要もないくらいに社会が整備されているから」ではなかったことは確かだ。

この国に来て、私が目にしたのは、組合を作って労働条件を良くしようとする学生・ポスドクの姿であり、女性蔑視的な発言を苦笑いしてスルーせず、ストレートにロジカルに反論する研究アシスタントの姿であり、ACLUに積極的に関わる同僚の姿である。

メディアを通じて目にする、レイシズムと戦い続ける黒人・黄色人種や、レイシストに対して怒り狂う白人。

「ガラスの天井を破ることができなかった」ヒラリーの敗北宣言、トランプ大統領。March for Women・March for Science。Charlottesvilleでの白人至上主義者と抗議者の衝突。

要するに、アメリカでさえも理想の世界からは遠く、さまざまなレベルにおいて、まだ戦っている人たちがいるという当たり前のことに、ようやくというか、ついに気がついた。この国は変化する努力をしている。怒ったり泣いたり不安を感じることから逃げずに、真面目に少しでも良い道を模索することが歓迎される。

祈祷や呪術で病気を治そうとすることが今ではありえないこととして認識されているように、100年後の世界では「レイシズム?ジェンダー問題?そんな馬鹿げたことが本当にあったの?」と笑われるかもしれない。

でも、今はまだ解決していない。

2010年代の現時点では、とてもまだ笑い事にできないのだ。

さて、これをどう表現して、高校時代の自分に説教を食らわせようか。

よく言われる「被害者の気持ちになってみろ」というやつでは不十分なように思う。結局、被害者を置き去りにしている気もするし、自分と被害者は違う、という前提は排除しなければならないと今の私は考える。

「いまだに解決されていない社会全体の課題だから、笑い事にはできないのだ。お前も当事者なのだ。馬鹿みたい、と笑い飛ばせる日を目指して差別に対して怒れ。冷笑することを得意にしなさんな。」とでも言おうかな。

当時の私は、「差別」がまだ克服されていないことさえ、きちんと知らなかった。

そして、大学院教育まで受けたくせに、「変化し続ける世界」が何たるかを分かっていなかった。

それどころか、私は男女共同参画などの啓発的な活動が大嫌いで、

「あんなものをやっているから逆に差別の形を周知することになってしまって、いつまでたっても問題が片付かないのだ。どこかの世代が黙って当たり前のように振る舞えばジェンダー問題なんかそのうち消えるに違いない。」

なんて思っていた。

今は、

「アメリカでさえもまだ戦っているんだぞ。『今』しかあんたは関われない。だから分かったような顔で傍観するのはやめなさい。」

と思う。

特に私と同じように大学院まで行った人に問うてみたい。

日本の高学歴層は教養が足りないという指摘を目にしたことがあります。どんなふうに世界を見ています?

わたしは、圧倒的に「世界」を知らなかった。

これが、この場所やTwitterで自分の仕事以外の話題を多く取り上げる理由でもあります。自戒と反省を込めて。