無関心

気がつかないうちにルールが変わっていることは良くある。

ネットを通して共謀罪に関する記事を目にする。賛成か反対かと聞かれたら、私は反対だ。テロ対策は大事に違いないが、法案成立によるメリットと、権力暴走の危険性とをどうやってバランスを取ってやっていくのか、いまいちまだ腑に落ちない。

まぁでも、私なんかが考えなくても、エライ人がそこらへん上手にやってくれますよね?たぶん、私には関係ないよね?実際、一般市民には関係ないって言ってるし。

思うに、それだ。で、気がつかないうちにルールが変わる。

極端な例を考えてみる。

反原発運動をしている友人が、故郷の山で山菜を採って放射線モニタリングする話をわたしにしたとする。世が、そんな世なら、共謀罪でしょっぴかれるかもしれない。

で、あのひとは、なんとか運動とかおおっぴらにやっているような人だったから仕方ないわよね、そんな人と仲良くするのが悪いのよね、みたいな空気が漂うんだろう。

世の中のルールに対して、うまくやれなかった。その人が悪い。

たとえ、割とみんなが「変なルール」だって思っていたとしても?

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「状況がどんなふうになっても、自分は大丈夫だろう。うまくやれない奴が悪い。」

と、よく思っていた。

世の中には腹の立つことがたくさんある。ルール(暗黙の、も含めて)や仕組みに疑問を抱くと辛い。「いちいち怒ると疲れるからやめなさい」と直接的になり遠回しになり諭される機会はたくさんあるので、無関心が一番楽だと会得するのは簡単だ。

そして、いつの間にか考えることをやめる。

あとは、時にナルシシズムをスパイスに、自分が納得いく魔法の一言を紡ぎ出すだけだ。

上手くやれば大丈夫だ
黙っていれば大丈夫だ
我慢すれば大丈夫だ

才能があれば大丈夫だ

どんなふうになっても、自分は大丈夫。うまくやれない奴が悪い。

思い上がりも甚だしいわ。

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アメリカに来た途端、わたしはいわゆる「マイノリティ」の一人になった。もし「みんな大丈夫だから、あなたも大丈夫でしょう」と言われると辛い場面はいくらでも想像できる。

まぁ、なので、最終的にエライ人がうまくやろうが、今のあなたは「大丈夫」だろうが、やっぱり目をかっぴらいて世の中の動きを監視する心算でいたほうがいい。いつ「大丈夫じゃない」状況になるか分からない。それを知るのは難しい。

自分が病気したり、家族が病気したり。マジョリティとは異なる思想(極端に攻撃的な思想、とかではなくて)をどうしても抱かざるを得ない場面が訪れたり。

いつ、ルールや仕組みの落とし穴に煩わされる立場になるかは分からないのだ。

終電に揺られながら、スマホでニュースをぼーっと眺めていた数年前の自分にそう告げたい。