シカゴにAramiという寿司屋がある。SとTに誘われて行ったのが最初だった。すごく高いが美味い。シマアジの握りとかアメリカで食べられるとは思わなかった。
日本生活の長い私からすると違和感があるのだが、寿司があるようなシカゴの店のメニューには大抵、ラーメンもあった。どちらも日本食だし人気あるから出しちゃおう、というノリなのだろうか。
Aramiにもやはり店の名前をつけたオリジナルラーメンがあった。実は、Sはベジタリアンなのだが、「スープだけならOKなはずだ」と言って、そのチャーシュー入りラーメンの汁を昇天しそうな顔で美味そうにすすっていた。
後日、別の店ではTが、「Sがベジタリアンって、私の影響だとよく勘違いされるのよね。あっ、これ美味しいわ!食べられなくてダーリンかわいそう。ゆうこ、お食べ。」と言いながら、Sの隣で豚バラのバオをパクパク頬張っていた。この店のバオ、めっちゃ美味かった。
こちらのレストランやスーパーには、ベジタリアンメニューやグルテンフリーなど様々なオプションがあることが多い。宗教上の理由や、Sのように体質・信条などが理由で食べ物に制限のある人が多くいるためだ。需要が多いから商売として成り立つのだろう。そんなことからも、多様性を支持する仕組みが上手く機能していることを垣間見る。
シカゴ・ボストンでは、お金を出せば美味しいものは手に入る。節約したってそれなりに美味しいものが手に入る。脂の多い霜降り肉が苦手な私にとって、アメリカで主に出回っている赤身肉はものすごく美味しく感じる。
ただ、素材の新鮮さが威力を発揮する和食メニューをアメリカで日本並みに美味しく作ろうとするのは酷だ。こんなでかい国で都市部に住んで、毎日の食卓に全国各地から届いた採れたて野菜だのを求めるほうが多分間違っている。
なので、「アメリカの飯はまずい」という声を聞いたら、そうとは限らないよ、と釈明したい気持ちでいる。
…が、ケーキの見た目に関しては文化の違いというか、正直フォローしようがない気もする。
もはや粘土細工。
油絵風。狂気すら感じる。
どうやら、とにかくカラフルにしないと気が済まない模様。ケーキが登場する場面の高揚感を、それ自体が表現しちゃった感じか?
こういう「理解できないもの」を見ていると、「同じ世界に生きていても解釈の仕方は様々だ」という言葉の説得力をしみじみと感じる。
ちなみに、これらはバタークリームケーキだ。食べてみると結構美味しかった。