Sが貸してくれたのは、アート・スピーゲルマンの「MAUS」という漫画だ。ユダヤ人である作者によってホロコーストを生き残った両親の話が描かれており、1992年にピューリッツァー賞を受賞している。こんな雰囲気の作品です。ただのGoogle画像検索ですが、参考までに。
私はすなわち、ドイツ人の友人からこの本を借りて読んだ。
なぜSは、自分の国が悪者として描かれている本を大切に持っているのだろう、と私は思った。
責任感が強いSのことだ。彼にも「罪の意識は持たない。だが、責任はある。」という思想が根付いているのだろうか。
そして、ホロコーストを描いた作品をドイツ人に勧められたことが「衝撃」だった私の頭には、そのように考える回線が備わっていなかった、ということだ。
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作品について、ほんの少しだけ触れる。
この作品は、戦争経験者ではない息子が自分の父親に当時の話を聞く、という形で物語が進んでいく。
しかし、悲劇の記録として只々シンプルに情に訴えるような造りにはなっていない。なぜなら、ホロコーストを生き延びた父親と、話の聞き手である息子との間に溝があるからだ。
それはさりげない日常の描写にあらわれる。以下に、印象的だった場面を一つ挙げたい。
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息子とその彼女、そして父親が車に乗っている。道端では黒人のヒッチハイカーがプラカードを持って、相乗りさせてくれる車を探している。息子と彼女は車を止め、彼を車に乗せてあげる。
そして、ヒッチハイカーが彼らにお礼を言って車を降りた後、父親が息子たちに向かって言うのだ。
どうして黒人なんか乗せたのか、と。
そして更に父親は人種差別的な暴言を吐いて、息子を憂鬱な気持ちにさせる。
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人種差別による虐殺の被害者が、ためらうことなく別の人種に対して差別発言をする。
そのシーンの感想を話すと、そう、あの作品はね、そこらへんの葛藤も描き出そうとしている、とSは言った。そして、果てのない問題だよね、と言いたげな感じで顔を歪めて苦い笑顔を作って見せた。
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そんなこんなで、天気や休日の過ごし方など差し障りのない話から、解決しようのない途方もない話をするようになって、それに対する怒りや嘆きを口に出してみたりするうちに、私はSに対して遠慮なく腹の中を晒すようになった。
Sは私がアメリカに来て初めて深く交流した同僚であり、友人だった。彼ときちんと話をしてみたい、というのが原動力になって、私は色々な物事との向き合い方を少しずつ模索し始めた。一旦それを始めたら、「疲れるからもう取り出すのはやめよう」と思っていた記憶やら感情やらが自分の中からごろごろ出てきた。
自分の一部がロック解除されたようで、なんだか面白い経験だった。
写真はある日のSからの挑戦状。